| 1855年 | |
| 1月20日 | |
| エルネスト・ショーソン(Ernest Chausson)がパリの第10区にある叔父の家で生まれる。 彼の父(プロスペール・ショーソン Prosper Chausson)は、公共土木事業請負業を営んでおり、 ナポレオン3世時代のパリ美化工事(当時のセーヌ県知事オスマン男爵によって指揮された)に関連して財をなした。 | |
| 1866年 | |
| 彼の両親は、病弱であったエルネストの教育を家庭教師レオン・ブルトゥス=ラファルグ(Léon Brethous-Lafargue)に委ねることにした。 | |
| 1870年 | |
| レオン・ブルトゥス=ラファルグを介して、おそらく普仏戦争後、ド・レイサック夫人(Madame de Rayssac)に紹介され、
彼女のサロンへ出入りするようになる。 ド・レイサック夫人のサロンに足繁く通うようになり、様々な芸術家や知識人と交友し、音楽、文学、絵画の才能を開花させる。 | |
| 1875年 | |
| 3月12日 | |
| 父親の意向に従い、法学部門の大学入学資格試験(いわゆるバカロレア)に合格 | |
| 10月 | |
| 法学部への進学手続を行った | |
| 1876年 | |
| 4月24日 | |
| 法学士の資格を取得 | |
| 1877年 | |
| 5月7日 | |
| 弁護士資格を取得 | |
| 1878年 | |
| 遅くとも4月頃 | |
| ジュール・マスネ(Massnet)に私的に師事する | |
| 1879年 | |
| 8月頃 | |
| ドイツ、バイエルン地方を訪問。ミュンヘンで指揮者ヘルマン・レヴィと知り合い、彼のサロンに出入りするようになる。
ミュンヘンのこのサロンで、友人で詩人のモーリス・ブショールと出会い、
また、同国人の作曲家ヴァンサン・ダンディ(Vincent d'Indy)と知り合う。 | |
| 10月7日 | |
| パリ音楽院に自由聴講生としてマスネの管弦楽法の講義、フランクの講義を受講する。 | |
| 1880年 | |
| 12月24日 | |
| パリ音楽院に正式に入学する。 | |
| 1881年 | |
| 1月31日 | |
| マスネにより、「並外れた素質、素晴らしい技倆、ローマ対象コンクールに参加可能」と評価される。 | |
| 5月12日 | |
| ローマ対象コンクールに提出するために作曲した、テノール独唱つき男性合唱曲「アラビア人」がコンクール予選に落選。 | |
| 6月27日 | |
| パリ音楽院を自主的に退学する。 | |
| 9月初め | |
| ヴァイオリンとピアノとチェロのための三重奏曲(作品3)を完成(出版は1919年)。 | |
| 1882年 | |
| 4月8日 | |
| 三重奏曲(作品3)が初演されたものの、全く注目されなかった。 | |
| 7月 | |
| バイロイトを訪問し、フランス人のワーグナー派の面々とともにパルジファルの初演に出席する。 | |
| 12月23日 | |
| 国民音楽協会で、作品2の歌曲から4曲(「ナニー」、「イタリアのセレナード」、「最後の葉」、「蜂雀」)が初演された。 | |
| 1883年 | |
| 3月31日 | |
| 交響詩「ヴィヴィアーヌ」(作品5)が初演された。 | |
| 6月20日 | |
| ルノワールの計らいで知り合った、ジャンヌ・エスキュディエ(Jeanne Escudier)と結婚した。 | |
| 夏 | |
| 新婚旅行を兼ねてバイロイトを訪問し、パルジファルの公演に出席する。 | |
| 1884年~1886年にかけて | |
| パリの音楽界の動向に積極的に関与する傍ら、何曲かの歌曲や交響詩、合唱曲などを作曲する。 | |
| 1886年初め | |
| 歌劇「アルテュス王」(作品23)の台本作成に取り掛かる。 | |
| 春 | |
| 「森の中の孤独」と題された交響詩を作曲する。 | |
| 秋 | |
| 国民音楽協会(SNM)の書記に就任し、運営に深く関わることとなる。 | |
| 12月12日 | |
| 「森の中の孤独」(作品10)が初演される。 聴衆からも批評家からも好意的に受け止められたにも関わらず、この作品は破棄される。 | |
| 1887年 | |
| 11月15日 | |
| 交響詩「ヴィヴィアーヌ」の再オーケストレーションを完成。 | |
| 1889年 | |
| 7月半ば | |
| 家族でバイロイトを訪れる。
この時初めてドビュッシーと知り合い、数ヵ月後には友人としてドビュッシーはショーソン家をしばしば訪れるようになる。 | |
| 11月9日 | |
| 交響曲(作品20)の草稿を仕上げる。 | |
| 1890年 | |
| 夏 | |
| (ピアノ、ヴァイオリン、弦楽四重奏のための)協奏曲(作品21)の作曲を開始する。 | |
| 年末頃 | |
| 交響曲を完成させる。 | |
| 1891年 | |
| 4月18日 | |
| 国民音楽協会で、ショーソン自身の指揮により交響曲が初演される。 | |
| 6月8日 | |
| 「協奏曲」の最初の草稿を完成させる。 | |
| 9月28日 | |
| 「聖セシリアの伝説」(作品22)を完成させる。 | |
| 1892年 | |
| 1月25日 | |
| 「聖セシリアの伝説」が初演される。 | |
| 3月4日 | |
| ブリュッセルで「協奏曲」が初演される(イザイのヴァイオリン独奏)。 | |
| 4月30日 | |
| パリで「協奏曲」が再演される。 「この音楽家の最上の作品」と批評される。 | |
| 5月4日 | |
| ブリュッセルで「協奏曲」が演奏される(イザイのヴァイオリン独奏)。 | |
| 5月11日 | |
| パリで「協奏曲」が演奏される(イザイのヴァイオリン独奏)。 | |
| 1893年 | |
| 6月21日 | |
| 「愛と海の歌」(作品19)が完成される。 | |
| 1894年 | |
| 9月30日 | |
| 歌劇「アルテュス王」(作品23)の草稿が完成される。 | |
| 1896年 | |
| 6月29日 | |
| ヴァイオリンとオーケストラのための「詩曲」(作品25)が完成される。 | |
| 12月27日 | |
| ナンシーにて「詩曲」がイザイの独奏により初演される。 | |
| 1897年 | |
| 9月 | |
| ピアノ四重奏曲(作品30)が完成される。 | |
| ? | |
| ドビュッシーの「駆け落ち騒動」を非難したことからドビュッシーはショーソンに対して敵意を感じ、友情は断絶した。 | |
| 1898年 | |
| 1月31日 | |
| 交響詩「祭りの夕べ」(作品32)が完成される。 | |
| 10月25日 | |
| 弦楽四重奏曲(作品35)の第1楽章が完成される。 | |
| 12月17日 | |
| 「終わりなき歌」(作品37)が完成される。 | |
| 1899年 | |
| 1月29日 | |
| 「終わりなき歌」が初演される。 | |
| 4月1日 | |
| 弦楽四重奏曲(作品35)の第2楽章が完成される。 | |
| 5月 | |
| パリ郊外の別荘に移り、弦楽四重奏曲第3楽章の作曲を続ける。 | |
| 6月10日 | |
| 午後6時半頃、パリから到着する婦人と子供を迎えに行くために別荘から駅へ自転車で向かう際、
転倒して別荘の門柱に頭部を強打し、即死。 | |
| 6月15日 | |
| 葬儀が執り行われた。 | |
| 6月17日 | |
| ロンドンでイザイ独奏により、詩曲が演奏された。 | |