ショーソンの生涯



誕生から音楽を志すまで

エルネスト・ショーソン(Ernest Chausson)は、1855年1月20日パリの第10区にある叔父の家で生まれました。 彼の育った家庭は裕福で穏やかな環境にあり、両親は虚弱であった息子の教育を、一人の家庭教師にゆだねることにしました。 この家庭教師はかなりの教養人であったらしく、パリの多くのサロンに出入りし、様々な芸術家や知識人との親交が深かったようです。 この家庭教師を介してショーソンは1870年ごろ、ド・レイサック夫人に紹介されます。
ド・レイサック夫人のサロンでショーソンは自分より年長の芸術家や知識人との交際するうちに、教養を深めていくことになります。 そうして10代後半になると、文学、絵画、音楽のいずれの分野においてもその才能を開花させることになります。 文学、絵画、音楽のいずれの道へ進もうかと悩み、音楽の道へ進むことを決心したものの、父親の意向に従って大学の法学部に進み、 1877年には弁護士の資格を取得することになります。

二人の師

父の意向に従って始めた法学の学業を終えたショーソンは、父の許しを得て音楽の勉強を再開しました。 1877年末、新作オペラ「ラオールの王」で大成功を収め、パリ音楽院の作曲家教授に就任したばかりの作曲家ジュール・マスネーが、 ショーソンの家のすぐ近くに住んでいたという事情もあり、ショーソンはマスネーに作曲理論を個人的に師事することになります。 ショーソンはこのとき既に23歳、本格的に作曲の勉強を始めたのはやや遅い年齢でした。
その後、1879年10月、24歳半でショーソンはパリ音楽院の自由聴講生としてマスネーの管弦楽法のクラスに、 また、フランクのクラスにも入ることとなります。1880年12月には正式に音楽院に入学、1881年6月までマスネーのクラスに在籍していました。 (一般にはショーソンはフランクのもとで勉強していたと言われているのですが、公式の記録としてはマスネーに3年以上も学んでいたが、 フランクには学んでいないということになります。
音楽院を出たあと、ショーソンは最初の主要な作品であるピアノ三重奏曲を1881年9月初めに完成させ、フランクの批評を受けました。 フランクはいくつかの注文をつけるもののとても気に入った、と伝えられています。ピアノ三重奏曲は翌1882年4月初演されるものの、 誰にも注目されず、この作品を取り上げた批評は一つもなかったようです。

転機

1883年は、ショーソンにとっての転機の年でした。前年に完成した交響詩「ヴィヴィアーヌ」を3月に初演。フランクに作曲を学ぶことをやめ、 6月には、ルノワール(有名な印象派の画家)の計らいで知り合った女性と結婚。 7月には新婚旅行を兼ねて夫婦でバイロイトへ出向き「パルジファル」を聴いたと伝えられています。
パリに戻ってきたショーソンは、自身の作曲活動-この当時は主に歌曲を作曲していた-のみならず、音楽会の開催の支援を行ったり、 師であるフランクがレジョン・ドヌール勲章を受章できるよう腐心することになります。 その中には残念なことに実を結ばなかったことが二つあります。
一つは、友人であるデュパルクの歌曲の出版です。これは、事が実を結ぶ間際になりデュパルク自身が前言を撤回して作品の公表を拒み、 ショーソンも友人の決定を尊重したためついに日の目を見ることがありませんでした。
もう一つは友人であるド・レイサック夫人が関係していたヴェルサイユのダーム・オーギュスティーヌ修道院のために計画したミサ曲でした。 ミサ通常文とグレゴリオ聖歌風の応唱部分とを交互に結びつける-単旋律の独唱の間に多声音楽を挿入する-試みを、 ショーソンは最後まで進めることはありませんでした。
ショーソンが彼の唯一のオペラの計画に心を惹かれ、「アーサー王」の伝説に基づいた台本を書き始めたのも、 結婚後それほど時の経たない1886年のことでした。また、この頃友人であるポール・プージョーに宛てた手紙の中で、 「たとえ1頁であっても、人の心にしみ透るものを書かずには倒れたくないと、ただそれだけを願っています。」 という、後に有名になった言葉を書き残しています。
1886年秋、友人であるダンディが国民音楽協会に改革を企てたことで、心ならずもショーソンはこの協会の活動に巻き込まれていくことになりました。 当時、国民音楽協会はフランスの作品の紹介しか行っていなかったのを、ダンディが古い作品や外国の作品も取り上げていこう、と意見を述べ、 この意見が投票の結果可決され、フランクが会長、ダンディとショーソンが書記、フォーレが会計を務めることになりました。 実際の仕事はダンディとショーソンが行うことになりました。このようにパリの音楽界で重要な地位に立つようになったショーソンは、 協会の仕事だけでなく、自宅でも様々な芸術家を招いての夜会を催すこととなり、作曲活動はほとんど出来ない状態になっていました。 続く数年は、春から夏にかけてパリから離れた地方に出かけて作曲を行い、冬には夏に作曲したものを磨き上げていく、 という習慣で一年を過ごすようになります。

傑作の時期

1889年夏、ショーソン一家は例年のようにバイロイトに出かけ、「パルジファル」や「トリスタン」、「マイスタージンガー」を聴くことになります。 このバイロイトでは、シャブリエやダンディ、フロラン・シュミットといったフランク派の作曲家たちと一緒になりました。 この年は彼らだけではなく、若い頃のドビュッシーともバイロイトで出会い、数か月後、ドビュッシーはショーソンの友人たちのグループに加わることになります。
この1889年から1890年にかけて、交響曲、歌曲「愛と海の詩」を手がけている他、「ピアノ、ヴァイオリンと弦楽四重奏のための協奏曲」の作曲も始めています。 続く1891年には、「協奏曲」を完成させた他、「聖セシリアの伝説」も完成。
翌1892年の春には、3月4日にブリュッセルで「協奏曲」が初演、4月30日にはパリ初演され、「この音楽家の最上のもの」という賛辞を受けることになりました。 この協奏曲に心酔していたベルギーの大ヴァイオリニスト、ウジェーヌ・イザイは5月4日にブリュッセルで、11日にパリで再演し、 至るところで賞賛されることとなりました。
この後ショーソンは1886年以来取り組んでいるオペラ「アルチュス王」の作曲に没頭することになります。 そのため、他人の音楽との接触を完全に絶ち、友人であるドビュッシーが心血を注いで取り組み、 ショーソンに意見を求めていた「ペレアスとメリザンド」の楽譜すら読まなかったと伝えられています。 ドビュッシーはこのことを非常に残念がったようですが、ショーソンは義兄に 「彼の音楽がたまらなく私の気に入るだろう事は前もって分かっていました。しかしそのために『アルチュス』の仕上げのために心を乱されるのを恐れたのです。」 と手紙で伝えています。長年に亘って書き続けられた「アルチュス王」は、1894年の暮れ、全3幕のオーケストレーションを終了し、続く1895年には清書をします。

「アルチュス」の後

1896年4月から6月末にかけて、ショーソンは彼の作品中最も有名な作品、オーケストラとヴァイオリンのための「詩曲」を書き上げます。 この「詩曲」は1896年12月にイザイの独奏によりナンシーで初演され、「全く甘い哀愁と情熱に満ちている」、 「力強いと同時に節度ある管弦楽法。結合されることの稀な二つの長所」と言った批評が為されています。 しかし翌4月のパリ初演の際、パリの批評家は戸惑いを見せたといいます。
「詩曲」の後、ショーソンは数年ぶりに室内楽の作曲をはじめ、1897年7月から9月にかけてピアノ四重奏曲を作曲。 同じ時期に、「チェロとピアノのための小品」も作曲。ついで弦楽四重奏曲の作曲にも着手し、 ショーソンの創作意欲はかつてなく高まっていました。 弦楽四重奏曲の合間に「終わりなき歌」を作曲し、1899年1月に初演。幸先よく1899年の年を迎え、 1899年4月1日に、弦楽四重奏曲の第2楽章を仕上げ、ついで第3楽章の作曲に取り掛かります。 5月には毎年のようにパリを離れ、地方の別荘に出かけ作曲を続けます。 この別荘地、セーヌ河畔のリメという小村で、毎日数小節ずつ弦楽四重奏曲の作曲を進めては、 徒歩あるいは自転車で散策するのが常だったと伝えられています
ところがショーソンは余りに馬鹿げていて痛ましい事故のため、このリメという村で世を去ることになります。
六月十日午後六時半頃、もうすぐ出来上がるばかりの楽譜を脇にやって、彼は長女のエチエネットを呼び、 一緒にいつもの道を回ってから、パリから着く夫人と子供たちを迎えに、近くの駅に行くことにした。 より敏捷だった若い乗り手の方が先に立ち、しばらく行って振り向くと、父親の姿が見えなかった。 そこで引き返すと、恐ろしい光景が彼女を待ち受けていた。 正門の柱の根元にこの音楽家がこめかみを砕かれて倒れていたのである。彼は即死していた。
この馬鹿げた事故は、過労に、その午後の暑さが加わったことに因るものであったのだろうか。 ショーソンが自転車に乗ることが上手でなかったために起こったのであろうか。この道路に彼は慣れていたし、 それは皆の言い分とは反対に、比較的穏やかな傾斜で下っていた。何が起こったのであろう。それは誰にも分からず、 この作曲家は、彼の秘密を墓場の中に持ち去っていった。

「ショーソン」(ジャン・ガロワ著 西村六郎訳 音楽之友社 1974)より

この痛ましい事故のため、弦楽四重奏曲の総譜は未完成のまま遺されることになりました。 遺族の願いにより長年の友人であったダンディが、 「ショーソン自身が書いているように、亡き友の意図であると思われたものにできるだけ忠実に」 第3楽章を完成させました。発見されたフィナーレは、下書きの段階を出るものではなく、 ダンディは第3楽章を持ってこの弦楽四重奏曲を終えています。

ショーソンの作品一覧

Pelleasによる独断的ショーソン作品入門

ショーソンの年譜

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