ルクーの年譜

(注)人名の読み方に関しては、後日修正する可能性ありです。(2002/11/29記)

1870年
1月20日
ギョーム・ルクー(Guillaume Lekeu)がベルギーのヴェルヴィエ(Verviers)の南にあるウーシー(Heusy)という小さな村で生まれる。
彼の父(同名のギョーム・ルクー Guillaume Lekeu)は、二人の兄、祖父と共に羊毛の取引で生計を立てていた。

1876年頃
ギョームは、父からヴァイオリンを受け取り、いくつかのメロディを実際に自分で弾いてみようとしていた。 その様子を見て、ギョームの父は息子をウーシーとヴェルヴィエの音楽教師に附かせて、 ピアノ、ヴァイオリン、ソルフェージュの勉強をはじめさせた。

1879年
3月
ルクーの一家は、ポワティエ(Poitiers)へ引っ越し、ギョームはポワティエのリセで、1879年3月から1888年6月まで学ぶ。
この地でもピアノのレッスンを受け、さらにはヴァイオリンとチェロも学び始める。 ルクーは練習熱心であり、演奏も巧かったらしいが、彼が作曲家になるとは誰も想像しなかった。

1885年
ポワティエにあるリセの物理教師、アレクサンドル・ティスィエールがルクーに、 バッハとベートーヴェンの作品の素晴らしさを教えた事が、 ルクーが作曲を目指すきっかけとなる。
リセが休暇の間、ルクー、物理の先生、他の人たちは、特にベートーヴェンの、他にはモーツァルト、シューベルト、ハイドン、 そしてさらには、ショパン、ヴィオッティ、ラモー、グノーに至る、様々な作曲家の、演奏するのに易しい小品を演奏した。
15歳にしてルクーは、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲のとりこになり、ワーグナーの作品の情熱性を好むようになった。
また、ルクーは演劇と詩にも魅惑された。
6月9日
今知られている限りでの、ギョーム・ルクーの最初の自筆譜の完成日付である。 曲は2台のヴァイオリンとピアノのためのコラール、op.2 no1(作品43)である。

1887年
8月12日
ルクーと彼の両親や友人との継続的な手紙のやりとりのうち、はっきりと分かっている最初の日付である。 友人に宛てた最初の手紙は、ルクーが毎年夏休みを過ごしているヴェルヴィエで書かれた。 この手紙を読む限り、ルクーはマラルメ(Mallarmé)と出会ったらしいことがわかる。
8月13日
ルクーはヴェルヴィエのヴァイオリニストから和声のレッスンを初めて受けた。
9月15日
弦楽四重奏のための瞑想曲(作品48)の私的な演奏が行われる。

1888年
3月
ルクーはピアノとチェロのためのソナタ(作品65)を作曲した。
6月8日
ルクーの一家はポワティエからパリに引っ越した。
11月23日
ルクーは文学、哲学の最終試験を受け、「充分に良い」との評価を得た。卒業証書の日付は12月29日である。 これにより、ルクーは音楽に専念することができるようになる。

1889年
年の初め
ヴェルヴィエの叔父の家に滞在。その間、彼の音楽的知識は徐々に深まっていき、彼の才能は圧倒的なものとなっていった
3月11日頃
「フィデリオ」の上演をしている劇場で、ルクーはヴェルヴィエでの少年時代に知り合った、 ヴァイオリニストのマティウ・クリックボーン(Mathieu Crickboom)と再会し、二人の間の友情は深まっていくことになる。
およそ3か月間、ルクーは和声のレッスンを受ける。
7月20日頃から8月17日まで
ルクーは何人かの友人知人と共にバイロイト巡礼を行った。 バイロイトでは「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、「トリスタンとイゾルデ」、「パルジファル」の上演を観劇した。
ワーグナーの楽劇は、ルクーに重大な影響を及ぼすことになる。
9月始め
ルクーはセザール・フランク(César Franck)に紹介され、フランクに生徒として受け入れられ、 フランクから20回にわたるレッスンを受け、友人となる。
フランクが翌年死去したため、ルクーはフランク最後の生徒となった。
10月1日
ルクーは、ヴェルヴィエの音楽学校の第1指揮者のルイ・ケフェール(Louis Kéfer)に紹介される。 ケフェールはルクー作品の最初の演奏者となり、その後ルクーの主だった友人となる。

1890年
2月5日頃から4月15日まで
ルクーはヴェルヴィエに滞在し、そこで初めての大成功を勝ち取ることになる。
3月12日
おそらくこの日にルクーは、アマチュアの音楽サークルのオーケストラの指揮をすることで、 指揮の分野での最初の一歩を踏み出す。
4月13日
ルイ・ケフェール指揮で、1889年12月に完成した第1交響的練習曲(作品18)が演奏される。
5月15日頃
ルクーは、アンジェの演奏家協会の副会長を紹介される。この協会は、若い作曲家が自作を演奏する機会を与え、 それはルクーにとってもためになることだった。
6月15日頃
ルクーは2月に取り掛かり始めた、第2交響的練習曲の第1部ハムレット(作品19)を完成させる。
8月15日と22日
第2交響的練習曲の第2部オフェリーの2つの版を完成させた。
11月8日
セザール・フランクがパリで死去。ルクーは無力な状態になってしまった。
1890年の終わりから1891年の最初の数ヶ月間にかけて、ルクーは落胆した状態を抜け出すことができなかった。

1891年
1月7日
ルクーは1889年12月に作曲を始めたピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重奏曲(作品70)の草稿を完成させ、 セザール・フランクに捧げることを望んだ。
2月6日
ルクーとヴァンサン・ダンディが初めて会った日らしい。 ダンディはルクーが自信を回復する手助けをし、この若い作曲家の懸命な教師となる。
4月の始め
2月5日に作曲を開始したと思われるピアノソナタ(作品105)を完成させる。
4月28日
弦楽合奏のためのアダージョ(作品13)と、弦楽五重奏、3つのトロンボーン、オルガンのための"Epithalame"(作品17)を完成。
6月の始め
合唱とオーケストラのための叙情的な歌曲(作品7)を完成、ヴェルヴィエの音楽協会で試演される。
7月20日
ブリュッセルのローマ賞コンクール予選が始まる。
ルクーはダンディの勧めにより参加を決意する。
ダンディは、「ルクーは他の作曲家と渡り合っても有利であろう」と考えていた。
ルクーは、できるだけ長い間、コンテストへの参加を秘密にしておきたいと思っていた。
7月23日
ルクーは、自身でも驚いたことに9人中1位で予選を通過したことを公表された。他には5人の作曲家が予選を通過した。
7月24日
ルクーとウジェーヌ・イザイが最初に会った日である。
7月25日
ルクーはローマ賞コンクールの最終審査のため、「アンドロメダ」という題のカンタータの作曲に専念した。
8月19日
ルクーはカンタータ「アンドロメダ」を完成した。独唱、合唱、管弦楽のための叙情的交響詩である(作品3)。
ルクーはしばらく作曲作業から離れる。
9月12日
審査員は、ルクーをローマ賞の第2位とすることで合意した。
ルクーは、不正行為の被害を被ってしまったと感じ、ローマ賞第2位の受賞を辞退した。
12月2日
ヴェルヴィエの王立音楽協会は、抒情歌曲(作品7)を演奏した。
12月18日
ルクーはアンドロメダの断篇をソプラノ、ピアノ、弦楽四重奏に編曲する作業を終えた(作品5)。
岩に繋がれたアンドロメダが嘆きの言葉をつぶやくシーンで、ブリュッセルの20世紀協会で演奏されることになる。

1892年
2月3日
ルクーはチェロ独奏、弦楽五重奏、2つのホルン、バスーンのためのラルゲット(作品28)を完成させた。
2月18日
ブリュッセルの20世紀協会で、アンドロメダの断篇(作品5)-ソプラノ、ピアノ、弦楽合奏のための版-が演奏された。
ルクーは演奏を指揮し、 その夜、ウジェーヌ・イザイはルクーにヴァイオリンのためのソナタの作曲を依頼した。
3月27日
ヴェルヴィエの音楽学校の管弦楽団と合唱団、ルイ・ケフェールの指揮で、ルクーの「アンドロメダ」(作品3)の全曲が演奏された。
4月
歌とピアノのための詩(作品82)の第1曲目を完成。
5月28日
ルクーは1891年5月から取り組んでいた、「アンジェの2つの民謡による管弦楽のための幻想曲」(作品24)を完成させた。
5月終わりから6月初め
ルクーの両親がアンジェに引っ越してきた。ギョームは両親と同居することにした。
8月末まで2か月半をヴェルヴィエで過ごした。
10月6日
ヴァイオリンソナタ(作品64)の現在知られている限りの私的な初演の日である。 ヴァイオリンはウジェーヌ・イザイ、ピアノはギョーム・ルクー。
10月15日
歌とピアノのための詩(作品82)の第2曲目を完成。
11月12日
ルクーはパリのアパルトマンに引っ越す。
11月15日
歌とピアノのための詩(作品82)の第3曲目を完成。
11月17日
ルクーは、ノクチュルヌ(作品82の3曲目)の弦楽四重奏とピアノ版を完成(作品83)。
11月30日
ルクーは作曲家ギュスターヴ・シャルパンティエと会う。
11月
「アンドロメダ」の歌とピアノ版(作品4)が出版される。
12月3日
ルクーはピアノ四重奏曲(作品62)の作曲を開始した。が、これは未完に終ることとなる。
12月25日
アンジェの音楽家協会の第430回演奏会で「アンドロメダ」の断篇(作品5)の管弦楽版が演奏された。

1893年
2月4日
パリで、アンドロメダの断片(作品5)-歌とピアノ、弦楽四重奏の版-が演奏された
3月7日
ヴァイオリン・ソナタ(作品64)がイザイの独奏で、同時に歌とピアノのための3つの詩(作品82)が演奏された。
この演奏会は、ルクーにとっては真の大成功であった。
6月29日
ブリュッセルにて、ウジェーヌ・イザイの指揮で「アンジェの2つの民謡による管弦楽のための幻想曲」(作品24)が演奏された。
7月6日
ドビュッシーへの手紙で、ショーソンはルクーと会ったと語っている。
7月16日
ルクーはピアノ四重奏曲(作品62)の第1楽章を完成させた。
8月
弟子のロベール・ブルッセル(Robert Brussel)への手紙の中で、エマニュエル・シャブリエと会ったと伝えている。
10月始め
弟子のロベール・ブルッセル、チェリストのアンリ・ジレとの夕食の際、チフス菌に汚染されたシャーベットを食べた。 このことが彼の運命を決めてしまった。
(1920年に、Honored Lejeuneと言うヴェルヴィエのジャーナリストは、 ルクーはチフスで入院していた友人を訪問した際に感染した、と断言している : appended on 23 January 2003)
10月18日
ルクーはヴェルヴィエでの演奏会で「アンジェの2つの民謡による管弦楽のための幻想曲」(作品24)を指揮した。
10月23日
ブリュッセルで、ルクーはピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための四重奏曲(作品62)の第1楽章の抜粋の演奏に出席する。
12月29日
今知られている限りでは、ギョーム・ルクーの最後の手紙の日付である。
手紙はロベール・ブルッセルに宛てられた物で、クリスマスの休みをアンジェ(Angers)で過ごした日である。

1894年
1月21日
ルクーはアンジェ(Angers)で腸チフスのため亡くなる。1月26日に故郷の村であるウーシー(Heusy)の共同墓地に埋葬された。

ルクーの作品一覧(second version)

Pelleasによる独断的ルクー作品入門

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