| 1870年 | |
| 1月20日 | |
| ギョーム・ルクー(Guillaume Lekeu)がベルギーのヴェルヴィエ(Verviers)の南にあるウーシー(Heusy)という小さな村で生まれる。 彼の父(同名のギョーム・ルクー Guillaume Lekeu)は、二人の兄、祖父と共に羊毛の取引で生計を立てていた。 | |
| 1876年頃 | |
| ギョームは、父からヴァイオリンを受け取り、いくつかのメロディを実際に自分で弾いてみようとしていた。
その様子を見て、ギョームの父は息子をウーシーとヴェルヴィエの音楽教師に附かせて、
ピアノ、ヴァイオリン、ソルフェージュの勉強をはじめさせた。 | |
| 1879年 | |
| 3月 | |
| ルクーの一家は、ポワティエ(Poitiers)へ引っ越し、ギョームはポワティエのリセで、1879年3月から1888年6月まで学ぶ。 この地でもピアノのレッスンを受け、さらにはヴァイオリンとチェロも学び始める。 ルクーは練習熱心であり、演奏も巧かったらしいが、彼が作曲家になるとは誰も想像しなかった。 | |
| 1885年 | |
| ポワティエにあるリセの物理教師、アレクサンドル・ティスィエールがルクーに、
バッハとベートーヴェンの作品の素晴らしさを教えた事が、
ルクーが作曲を目指すきっかけとなる。 リセが休暇の間、ルクー、物理の先生、他の人たちは、特にベートーヴェンの、他にはモーツァルト、シューベルト、ハイドン、 そしてさらには、ショパン、ヴィオッティ、ラモー、グノーに至る、様々な作曲家の、演奏するのに易しい小品を演奏した。 15歳にしてルクーは、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲のとりこになり、ワーグナーの作品の情熱性を好むようになった。 また、ルクーは演劇と詩にも魅惑された。 | |
| 6月9日 | |
| 今知られている限りでの、ギョーム・ルクーの最初の自筆譜の完成日付である。
曲は2台のヴァイオリンとピアノのためのコラール、op.2 no1(作品43)である。 | |
| 1887年 | |
| 8月12日 | |
| ルクーと彼の両親や友人との継続的な手紙のやりとりのうち、はっきりと分かっている最初の日付である。
友人に宛てた最初の手紙は、ルクーが毎年夏休みを過ごしているヴェルヴィエで書かれた。
この手紙を読む限り、ルクーはマラルメ(Mallarmé)と出会ったらしいことがわかる。 | |
| 8月13日 | |
| ルクーはヴェルヴィエのヴァイオリニストから和声のレッスンを初めて受けた。 | |
| 9月15日 | |
| 弦楽四重奏のための瞑想曲(作品48)の私的な演奏が行われる。 | |
| 1888年 | |
| 3月 | |
| ルクーはピアノとチェロのためのソナタ(作品65)を作曲した。 | |
| 6月8日 | |
| ルクーの一家はポワティエからパリに引っ越した。 | |
| 11月23日 | |
| ルクーは文学、哲学の最終試験を受け、「充分に良い」との評価を得た。卒業証書の日付は12月29日である。
これにより、ルクーは音楽に専念することができるようになる。 | |
| 1889年 | |
| 年の初め | |
| ヴェルヴィエの叔父の家に滞在。その間、彼の音楽的知識は徐々に深まっていき、彼の才能は圧倒的なものとなっていった | |
| 3月11日頃 | |
| 「フィデリオ」の上演をしている劇場で、ルクーはヴェルヴィエでの少年時代に知り合った、
ヴァイオリニストのマティウ・クリックボーン(Mathieu Crickboom)と再会し、二人の間の友情は深まっていくことになる。 | |
| 春 | |
| およそ3か月間、ルクーは和声のレッスンを受ける。 | |
| 7月20日頃から8月17日まで | |
| ルクーは何人かの友人知人と共にバイロイト巡礼を行った。
バイロイトでは「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、「トリスタンとイゾルデ」、「パルジファル」の上演を観劇した。 ワーグナーの楽劇は、ルクーに重大な影響を及ぼすことになる。 | |
| 9月始め | |
| ルクーはセザール・フランク(César Franck)に紹介され、フランクに生徒として受け入れられ、
フランクから20回にわたるレッスンを受け、友人となる。 フランクが翌年死去したため、ルクーはフランク最後の生徒となった。 | |
| 10月1日 | |
| ルクーは、ヴェルヴィエの音楽学校の第1指揮者のルイ・ケフェール(Louis Kéfer)に紹介される。
ケフェールはルクー作品の最初の演奏者となり、その後ルクーの主だった友人となる。 | |
| 1890年 | |
| 2月5日頃から4月15日まで | |
| ルクーはヴェルヴィエに滞在し、そこで初めての大成功を勝ち取ることになる。 | |
| 3月12日 | |
| おそらくこの日にルクーは、アマチュアの音楽サークルのオーケストラの指揮をすることで、
指揮の分野での最初の一歩を踏み出す。 | |
| 4月13日 | |
| ルイ・ケフェール指揮で、1889年12月に完成した第1交響的練習曲(作品18)が演奏される。 | |
| 5月15日頃 | |
| ルクーは、アンジェの演奏家協会の副会長を紹介される。この協会は、若い作曲家が自作を演奏する機会を与え、
それはルクーにとってもためになることだった。 | |
| 6月15日頃 | |
| ルクーは2月に取り掛かり始めた、第2交響的練習曲の第1部ハムレット(作品19)を完成させる。 | |
| 8月15日と22日 | |
| 第2交響的練習曲の第2部オフェリーの2つの版を完成させた。 | |
| 11月8日 | |
| セザール・フランクがパリで死去。ルクーは無力な状態になってしまった。 1890年の終わりから1891年の最初の数ヶ月間にかけて、ルクーは落胆した状態を抜け出すことができなかった。 | |
| 1891年 | |
| 1月7日 | |
| ルクーは1889年12月に作曲を始めたピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重奏曲(作品70)の草稿を完成させ、
セザール・フランクに捧げることを望んだ。 | |
| 2月6日 | |
| ルクーとヴァンサン・ダンディが初めて会った日らしい。
ダンディはルクーが自信を回復する手助けをし、この若い作曲家の懸命な教師となる。 | |
| 4月の始め | |
| 2月5日に作曲を開始したと思われるピアノソナタ(作品105)を完成させる。 | |
| 4月28日 | |
| 弦楽合奏のためのアダージョ(作品13)と、弦楽五重奏、3つのトロンボーン、オルガンのための"Epithalame"(作品17)を完成。 | |
| 6月の始め | |
| 合唱とオーケストラのための叙情的な歌曲(作品7)を完成、ヴェルヴィエの音楽協会で試演される。 | |
| 7月20日 | |
| ブリュッセルのローマ賞コンクール予選が始まる。 ルクーはダンディの勧めにより参加を決意する。 ダンディは、「ルクーは他の作曲家と渡り合っても有利であろう」と考えていた。 ルクーは、できるだけ長い間、コンテストへの参加を秘密にしておきたいと思っていた。 | |
| 7月23日 | |
| ルクーは、自身でも驚いたことに9人中1位で予選を通過したことを公表された。他には5人の作曲家が予選を通過した。 | |
| 7月24日 | |
| ルクーとウジェーヌ・イザイが最初に会った日である。 | |
| 7月25日 | |
| ルクーはローマ賞コンクールの最終審査のため、「アンドロメダ」という題のカンタータの作曲に専念した。 | |
| 8月19日 | |
| ルクーはカンタータ「アンドロメダ」を完成した。独唱、合唱、管弦楽のための叙情的交響詩である(作品3)。 ルクーはしばらく作曲作業から離れる。 | |
| 9月12日 | |
| 審査員は、ルクーをローマ賞の第2位とすることで合意した。 ルクーは、不正行為の被害を被ってしまったと感じ、ローマ賞第2位の受賞を辞退した。 | |
| 12月2日 | |
| ヴェルヴィエの王立音楽協会は、抒情歌曲(作品7)を演奏した。 | |
| 12月18日 | |
| ルクーはアンドロメダの断篇をソプラノ、ピアノ、弦楽四重奏に編曲する作業を終えた(作品5)。 岩に繋がれたアンドロメダが嘆きの言葉をつぶやくシーンで、ブリュッセルの20世紀協会で演奏されることになる。 | |
| 1892年 | |
| 2月3日 | |
| ルクーはチェロ独奏、弦楽五重奏、2つのホルン、バスーンのためのラルゲット(作品28)を完成させた。 | |
| 2月18日 | |
| ブリュッセルの20世紀協会で、アンドロメダの断篇(作品5)-ソプラノ、ピアノ、弦楽合奏のための版-が演奏された。 ルクーは演奏を指揮し、 その夜、ウジェーヌ・イザイはルクーにヴァイオリンのためのソナタの作曲を依頼した。 | |
| 3月27日 | |
| ヴェルヴィエの音楽学校の管弦楽団と合唱団、ルイ・ケフェールの指揮で、ルクーの「アンドロメダ」(作品3)の全曲が演奏された。 | |
| 4月 | |
| 歌とピアノのための詩(作品82)の第1曲目を完成。 | |
| 5月28日 | |
| ルクーは1891年5月から取り組んでいた、「アンジェの2つの民謡による管弦楽のための幻想曲」(作品24)を完成させた。 | |
| 5月終わりから6月初め | |
| ルクーの両親がアンジェに引っ越してきた。ギョームは両親と同居することにした。 8月末まで2か月半をヴェルヴィエで過ごした。 | |
| 10月6日 | |
| ヴァイオリンソナタ(作品64)の現在知られている限りの私的な初演の日である。
ヴァイオリンはウジェーヌ・イザイ、ピアノはギョーム・ルクー。 | |
| 10月15日 | |
| 歌とピアノのための詩(作品82)の第2曲目を完成。 | |
| 11月12日 | |
| ルクーはパリのアパルトマンに引っ越す。 | |
| 11月15日 | |
| 歌とピアノのための詩(作品82)の第3曲目を完成。 | |
| 11月17日 | |
| ルクーは、ノクチュルヌ(作品82の3曲目)の弦楽四重奏とピアノ版を完成(作品83)。 | |
| 11月30日 | |
| ルクーは作曲家ギュスターヴ・シャルパンティエと会う。 | |
| 11月 | |
| 「アンドロメダ」の歌とピアノ版(作品4)が出版される。 | |
| 12月3日 | |
| ルクーはピアノ四重奏曲(作品62)の作曲を開始した。が、これは未完に終ることとなる。 | |
| 12月25日 | |
| アンジェの音楽家協会の第430回演奏会で「アンドロメダ」の断篇(作品5)の管弦楽版が演奏された。 | |
| 1893年 | |
| 2月4日 | |
| パリで、アンドロメダの断片(作品5)-歌とピアノ、弦楽四重奏の版-が演奏された | |
| 3月7日 | |
| ヴァイオリン・ソナタ(作品64)がイザイの独奏で、同時に歌とピアノのための3つの詩(作品82)が演奏された。 この演奏会は、ルクーにとっては真の大成功であった。 | |
| 6月29日 | |
| ブリュッセルにて、ウジェーヌ・イザイの指揮で「アンジェの2つの民謡による管弦楽のための幻想曲」(作品24)が演奏された。 | |
| 7月6日 | |
| ドビュッシーへの手紙で、ショーソンはルクーと会ったと語っている。 | |
| 7月16日 | |
| ルクーはピアノ四重奏曲(作品62)の第1楽章を完成させた。 | |
| 8月 | |
| 弟子のロベール・ブルッセル(Robert Brussel)への手紙の中で、エマニュエル・シャブリエと会ったと伝えている。 | |
| 10月始め | |
| 弟子のロベール・ブルッセル、チェリストのアンリ・ジレとの夕食の際、チフス菌に汚染されたシャーベットを食べた。
このことが彼の運命を決めてしまった。 (1920年に、Honored Lejeuneと言うヴェルヴィエのジャーナリストは、 ルクーはチフスで入院していた友人を訪問した際に感染した、と断言している : appended on 23 January 2003) | |
| 10月18日 | |
| ルクーはヴェルヴィエでの演奏会で「アンジェの2つの民謡による管弦楽のための幻想曲」(作品24)を指揮した。 | |
| 10月23日 | |
| ブリュッセルで、ルクーはピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための四重奏曲(作品62)の第1楽章の抜粋の演奏に出席する。 | |
| 12月29日 | |
| 今知られている限りでは、ギョーム・ルクーの最後の手紙の日付である。 手紙はロベール・ブルッセルに宛てられた物で、クリスマスの休みをアンジェ(Angers)で過ごした日である。 | |
| 1894年 | |
| 1月21日 | |
| ルクーはアンジェ(Angers)で腸チフスのため亡くなる。1月26日に故郷の村であるウーシー(Heusy)の共同墓地に埋葬された。 | |