ルクー関連人物リスト

ルクーの友人、知人、親族、師弟関係にあった人物を簡単に紹介しています。

Robert Brussel (Paris 1874 - Paris 1940)
ロベール・ブルッセル。 1893年3月から11月までルクーの生徒だった。 エマニュエル・シャブリエ、ポール・デュカの友人であり、音楽雑誌の編集者を1897年から1914年まで務めた。 またロシア・バレエ団の熱烈な擁護者であり、 1913年、シャンゼリゼ劇場でのストラヴィンスキーの「春の祭典」の上演にも関与することとなる。

Mathieu Crickboom (Hodimont 1871 - Ixelles 1947)
マティウ・クリックボーン。 1887年にヴェルヴィエの音楽学校のヴァイオリン部門で銅賞を受賞、1888年からは一位を独占。 1889年には優秀な成績で卒業し、イザイ弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者に抜擢される。 1892年には自身の弦楽四重奏団を結成、1894年にはエルネスト・ショーソンと友人になる。 1908年には有名なヴァイオリン奏法の教則本を執筆し、1910年にはリエージュ王立音楽院の教授となる。 作曲家としても、フランク派の様式でヴァイオリンとピアノのためのソナタを作曲している。

César Franck (Liège 1822 - Paris 1890)
セザール・フランク。 リエージュで学び、父親の意向でピアニストとしてベルギー各地を演奏旅行した後、 1837年にパリ音楽院に入学。1858年にはサン・クロティルド教会のオルガニストとなる。 1872年にはパリ音楽院のオルガン科教授となり、 この頃からフランキストと呼ばれる弟子たちが彼のもとに集まるようになる。 1886年には国民音楽協会の会長に就任する。 彼の作品はバッハやベートーヴェンへの傾倒を見せ、循環形式を好んだことなどが特徴として挙げられる。

Paul Gilson (Bruxelles 1865 - Bruxelles 1942)
ポール・ジルソン。 音楽はほとんど独学で学び、ワーグナーと五人組(リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキー、ボロディン、キュイ、バラキレフ)の影響を受ける。 1887年から1889年までブリュッセル王立音楽院で作曲のコースを受講し、1889年、カンタータ「シナイ」でローマ賞第一位を受賞する。 彼はブリュッセル王立音楽院(1900)、アントワープ王立音楽院(1904)での和声学教授として、1909年から1930年までは音楽教育の重鎮として有名であった。彼の主要な作品は1890年から1905年にかけての物であり、それらの作品はワーグナーとR.シュトラウスの影響が強くみられる。 1905年以降は教育と作曲とに専念し、和声学(1919)と管弦楽法(1913)という、2冊の重要な理論書を執筆した。 また、多数の雑誌や新聞に音楽評論を寄稿した。

Antoine Grignard (Verviers 1864 - Verviers 1948)
アントゥワーヌ・グリニャール。 グリニャールは1882年、ヴェルヴィエの音楽学校でヴァイオリンとヴィオラ部門の一位を受賞。 1879年から1922年までヴェルヴィエ音楽学校のソルフェージュの教授を務めた。 また、1890年にはヴェルヴィエの音楽学校の生徒で結成された室内楽アンサンブルを指揮した。

Marcel Guimbaud (Saint-Sauvant / Vienne 1863 - Poitiers 1938)
マルセル・ギンボー。 弁護士の息子であり、ポワティエのリセの哲学クラスを1882年に優秀な成績で卒業し、1889年法学の博士号を取得。 1910年にはポワティエの、1919年にはアンジェの判事となり、1926年から1933年までポワティエの最高判事を務めた。 ルクーがローマ賞第二位を辞退した1891年、二人の間の友情は途切れた。

Eugénie Hansenne (Heusy 1843 - Mont-Dison 1903)
ウジェニ・アンセン。ギョーム。ルクーの母。12人兄弟の9番目でパン屋の娘。息子の死を嘆く事を止められずにいた。音楽に関して繊細ではあったものの、近い先祖に音楽家はいなかった。

Vincent d'Indy (Paris 1851 - Paris 1931)
ヴァンサン・ダンディ。貴族の子孫の家系に生まれたダンディは父方の祖母から厳格な教育を受けた。 ダンディは1869年、職業的音楽家となる前にピアノと和声を学んだ。 1870年の普仏戦争後、最初の作品を作曲し、パリの音楽家を統合し、国民音楽協会の最初のメンバーとなる。 1872年にパリ音楽院に入学して対位法と和声を学び、セザール・フランクに傾倒する。 翌年、ダンディはドイツを旅行し、ワーグナー作品の上演に出席、バイロイトでの「指輪」(1876年)、パルジファル(1882年)の初演にも出席した。 ダンディの作曲家としての最初の成功は、劇的伝説『鐘の歌』と「フランス山人の歌による交響曲」(いわゆるセヴェンヌ交響曲)である。 ダンディはオクターヴ・モーと1888年以来ブリュッセルの20世紀協会で演奏会を共同開催し、1890年には国民音楽協会の会長となる。 パリ音楽院の教育方法の改革に失敗した後、ダンディは1894年にスコラ・カントルムを設立。 スコラ・カントルムでの教育はグレゴリオ聖歌、パレストリーナ、バッハ、ベートーヴェン、フランクの作品に重点を置いたものであった。 彼の教育方針は4巻の「作曲法講義」で公表されている。 世紀が変わるとき、ダンディは最も有名な2つの舞台作品、「フェルヴァール」(1897年)と「異邦人」(1903年)を作曲した。 ダンディはオーケストラの指揮者としてもキャリアを積み、 パリ音楽院で管弦楽法教授(1912年から1929年)、指揮法教授(1914年から1929年)を務めた。 ダンディはドビュッシーの音楽を「無形式である」と排除した。 人生の終わりにあたって、フランクへの絶対的な賞賛は影をひそめ、 ラヴェル、六人組、プロコフィエフ、ストラヴィンスキー、シェーンベルクなどの作品に積極的に対峙した。 ダンディの作品は古典的な形式への傾倒を見せ、ベルリオーズ、ワーグナー、フランクの影響を見ることができる。 しかし、管弦楽法の第一人者であったダンディは、旋律や和声の大胆さに欠けていた。

Louis Kéfer (Jambes-lez-Namur 1842 - Woluwé-Saint-Pierre 1926)
ルイ・ケフェール。ケフェールは1862年、ブリュッセル王立音楽院でヴァイオリンと和声の第一位を、1865年には作曲の第一位を獲得した。 ヴァイオリン、作曲法、管弦楽法の勉強をした後、1873年、ヴェルヴィエに開いた音楽学校の校長に就任し、1907年まで校長を務めた。 ベートーヴェンとワーグナーの作品の熱烈な擁護者であったケフェールは、 ヴェルヴィエをベルギーにおけるベートーヴェン及びワーグナー作品の普及の中心地にしようとした。 彼の音楽活動は多岐にわたっていた。 1873年から1909年までヴェルヴィエのオーケストラを指揮した。他にも、1876年以降、音楽学校のオーケストラの演奏会を企画し、 1889年にはヴェルヴィエ弦楽四重奏団の第1ヴァイオリン奏者となり、ベートーヴェン、フランク、ダンディ、シューマンなどの演奏を行う。 作曲家としては、カンタータ、交響曲、宗教音楽、歌曲、室内楽曲を残し、編曲も行っている。

Guillaume Lekeu (père) (Elbeuf / Meuse 1841 - Mont-Dison près de Verviers 1925)
ギョーム・ルクー。作曲家と同名の父。羊毛商人の彼はウジェニ・アンセンと1869年4月27日に結婚した。 彼は音楽家ではなかったが、美術と文学に興味を持つ教養人だった。 彼は生涯の最後の30年を息子の作品を世に広める事に捧げた。

Jean Lekeu (Verviers 1838 - Verviers 1905)
ジャン・ルクー。ギョーム・ルクーの父方の叔父。 彼は文学に興味を持っており、「五月の歌」(作品73)の歌詞を作った。

Pierre Lekeu (Verviers 1831 - Hodimont 1903)
ピエール・ルクー。ギョーム・ルクーの父方の叔父。彼は独身を通した。彼は自分の兄弟ほど際立った個性の持ち主ではなかった。

Arthur Levoz (Limbourg / Liège 1852 - Etterbeek 1910)
アルトュール・レヴォ。 ヴェルヴィエの地方検事代理であったレヴォは1889年に児童保護協会を設立し、1903年まで議長を務めた。 優れたアマチュア音楽家であったレヴォ夫妻はルクーと1892年頃に知り合った。 アマチュア写真家でもあったレヴォは1892年にルクーの写真を2枚撮影している。1枚はヴェルヴィエの大通りで、もう1枚は10月19日の演奏会の後である。

Alfred Massau (Verviers 1847 - Verviers 1940)
アルフレ・マソー。ヴェルヴィエのオーケストラのティンパニ奏者とクラリネット奏者の息子。 1867年にリエージュ王立音楽院のチェロのクラスで賞金を獲得した。 彼はヴェルヴィエの音楽学校のチェロとコントラバスの教授を1873年から1920年まで務め、また弦楽四重奏団の一員であった。 マソーは国際的に有名なチェロの教則本の執筆者であり、歌曲、室内楽作品の作曲もしている。

Octave Maus (Bruxelles 1856 - Lausanne 1919)
オクターヴ・モー。 モーはブリュッセルで法律を勉強し、1877年に弁護士の資格を得ている。 1876年、彼はベルギー人で初めて「バイロイト巡礼」を行い、1881年にもバイロイトを訪れている。 1884年、新たに設立された20世紀協会で、モーは発表会、演奏会、会議の編成に尽力した。 第一次世界大戦でスイスに避難したモーは、ベルギーの芸術家の作品の発表会や演奏会を組織し、講演も行った。

Maurice Pujo (Lorrez-le-Bocage / Seine-et-Mame 1872 - Paris 1955)
モーリス・プジョー。 プジョーは二十歳で芸術と生活を確立し、1897年までに何度も作品を発表し、若手の理想主義的執筆家となった。 1898年からは反ドレフュス派、保守主義者となる。第二次世界大戦中は反ナチ主義者、反英主義者となった。

Alexandre Tissier (Amfreville-la-Mi-Voie / Seine-Maritime 1860 - Paris après 1925)
アレクサンドル・ティスィエール。 1883年、数学と物理の教員免許を取得する。ポワティエのリセでは1883年11月から1886年7月まで物理を担当する。 その後パリへ移転してリセの教授となる。 優れたアマチュア音楽家であった彼は、1905年に現存している中では最初の物となるルクーの伝記を執筆し、作曲家の父との親交を保った。

Alphonse Voncken (Verviers 1855 - Verviers 1939)
アルフォンス・ヴォンケン。 ヴォンケンは1874年にリエージュ王立音楽院のクラリネット部門で第一位を獲得した。 ウジェーヌ・イザイの同期生であった彼は、ヴァイオリン部門では第二位であった。 ヴォンケンは1876年から1919年までヴェルヴィエの音楽学校でソルフェージュ、ヴァイオリン、ヴィオラの教授を務めた。 彼は生涯を教育と幾つかの合唱協会の指揮に捧げ、国内外のコンテストで多くの賞を獲得した。 また、彼はルイ・ケフェールが第1ヴァイオリンを演奏していたヴェルヴィエの弦楽四重奏団でヴィオラ奏者を務め、 歌曲や室内楽、ピアノ曲も作曲している。

Eugène Ysaye (Liège 1858 - Bruxelles 1931)
ウジェーヌ・イザイ。イザイはリエージュ王立音楽院で1873年にヴァイオリン部門第一位を獲得し、翌年には奨学金も獲得している。 1882年にはピアニストのアントン・ルービンシュタインとの演奏会を初めて行った。 1883年から1886年までパリに住んでショーソン、ダンディ、フランク、フォーレ、サン=サーンス、ドビュッシーと友人になり、彼らの作品の演奏の第一人者となる。 1886年から1898年まではブリュッセルに住んで、王立音楽院でヴァイオリンを教えた。 彼の演奏家としての名声は20世紀協会でフランスとベルギーの作曲家の作品を演奏することにより高まった。 1889年、彼は弦楽四重奏団を結成した。イザイ弦楽四重奏団はメンバーに多少の変更はあったものの1897年まで続き、1900年から1902年まで再結成された。 イザイはラウール・プニョと1896年から1913年までデュオを組んで素晴らしい演奏をし、またブゾーニやイザイ夫人などともデュオを組んで演奏した。 また、指揮者としてもベルギーとフランスの現代作品の擁護をした。1918年から1922年はシンシナティでオーケストラの指揮者を務めた。 教師としてイザイは名声のあるヴァイオリニストを育成し、ヴァイオリン奏法の近代化も行った。 作曲家としては後期ロマン派の様式でヴァイオリンのための室内楽作品やオーケストラ小品を作曲し、死の数週間前にオペラも完成させた。

ルクーの年譜

ルクーの作品一覧  (second version)

Pelleasによる独断的ルクー作品入門

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