| 1865年6月9日 | アルベリク・マニャールはパリで生まれる。 父フランシスはフィガロ紙のジャーナリストとなった人物で、 母ボーデュエ・エメリーは昔からの花屋の娘であった。 |
| 1869年4月 | 母が死去。 |
| 1870年 | アルベリクは、プロシア兵が森で演習しているところを見てしまう。 |
| 1879年 | アルベリクはピアノを習い始める。またリセに入学し、そこでは優秀な生徒だった。父フランシスはフィガロ紙の編集長になった。 |
| 1882年 | 6ヶ月間、イギリスの大学に留学する。 |
| 1883 | マニャールは哲学の最終試験を合格し、その後1年間志願兵役につく。 |
| 1884年10月 | マニャールは法科大学に籍を置く。 |
| 1886年 | バイロイトへ旅行し、「トリスタンとイゾルデ」の上演を観劇する。 |
| 1886年10月 | マニャールはパリ音楽院のデュボワの和声のクラスに出席するようになり、ロパルツと友人になる。 |
| 1887年7月 | マニャールは法学士の資格を得る。 |
| 1887年10月 | マニャールはマスネの作曲のクラスに出席するようになり、本核的な作品を書くようになる。
ピアノのための3つの小品(op.1)である。 |
| 1888年 | 7月に和声のクラスで首席を獲得し、音楽院を卒業。その後、ダンディに4年間師事する。 |
| 1889年から1893年 | 師であるダンディの力を借りつつ、古風な様式による組曲(op.2)、 6つの歌曲(op.3)、 交響曲第1番(op.4)、そしてオペラ「ヨラーンド」(Yolande, op.5)を作曲する。 |
| 1890年2月 | O.モーと知己を得る。モーは20世紀協会を設立し、マニャールのノクテュルヌ(op.3-4)をブリュッセルで試演した。 |
| 1891年 | カジノ・デ・ロヤンでの副指揮者に任命される。 |
| 1891年12月 | ブーローニュの森で、ジュリア・クレトンと出会う。 |
| 1892年 | フィガロ紙にいくつかの批評を寄稿する。 |
| 1892年12月 | ヨラーンドがブリュッセルで上演される。 |
| 1892年から1893年 | 交響曲第2番(op.6)を作曲する。 |
| 1893年3月12日 | アンジェの芸術家教会で交響曲第1番が初めて試聴される。 |
| 1893年 | プロムナード(op.7)が作曲される。また、五重奏曲(op.8)の作曲が開始され、翌年完成する。 |
| 1894年 | ジュリア・クレトンとオーヴェルニューで休暇を過ごし、交響曲第3番を作曲を始める。 |
| 1894年11月18日 | 父フランシスが急死。マニャールは父への追憶のために「葬送の歌」(op.9)を作曲し、翌年完成させる。 |
| 1895年4月3日 | O.モーに献呈された五重奏曲がブリュッセルの20世紀協会で演奏される。 夏にオーヴェルニューにて交響曲第3番を完成させる。 |
| 1896年2月9日 | 交響曲第2番(op.6)がロパルツによってナンシーで演奏されるが、酷評される。 |
| 1896年2月16日 | マニャールはジュリア・クレトンとパリで結婚する。 |
| 1896年末から1897年 | スコラ・カントルムでダンディが受け持っていた対位法の授業を一時的に代理で講義する。 これはダンディの「フェルヴァール」のブリュッセルでの上演のためであった。 |
| 1897年から1900年 | マニャールの2曲目のオペラ「ゲルクール」(op.12)を作曲する。 |
| 1899年5月14日 | マニャール自身の作品を取り上げた演奏会を行い、マニャール自身が指揮をした。 マニャールは音楽家と批評家から高い評価を受けた。 ポール・プージョ、ポール・デュカの2人と友人になった。 |
| 1899年 | ドレフュス事件に触発されて、1901年から1902年にかけて「正義の歌」(op.14)を作曲。 |
| 1901年3月2日 | マニャール夫妻に長女エヴが誕生。 |
| 1902年5月2日 | ヴァイオリン・ソナタがプレイエル・ホールでイザイとプニョによって演奏された。 |
| 1902年から1903年 | 4つの歌曲(op.15)と弦楽四重奏曲(op.16)が作曲される。 出版社とのトラブルから、自費出版することとなる。 |
| 1903年から1904年 | ヴィーナス賛歌(op.17)を作曲し、妻ジュリアに献呈。 |
| 1904年3月19日 | 国民音楽協会で弦楽四重奏曲が演奏された。 |
| 1904年4月11日 | 次女オンディーヌが誕生。 |
| 1904年 | マニャール一家はオアーズ県のバロンに転居。 |
| 1904年11月6日 | コンセール・ラムルーでシェヴィヤードの指揮で交響曲第3番が演奏される。 マニャール作品の最初で、そして束の間の成功であった。交響曲は同シーズンに再演された。 ロマン・ロランはマニャールの作品に感激し、R.シュトラウスと引き合わせようとする。 |
| 1904年12月 | ヴィーナス賛歌がロパルツにより、ナンシーで演奏される。 |
| 1905年1月 | ブゾーニの指揮で交響曲第3番が演奏され、マニャールはベルリンへ招待された。 |
| 1905年から1909年 | マニャール3作目のオペラ「ベレニス」(op.19)が作曲された。 |
| 1906年1月14日と21日 | コンセルヴァトワールの演奏会で交響曲第3番が演奏された。 |
| 1906年1月19日 | 前年に作曲されたピアノ三重奏曲(op.18)が演奏され、ポール・プージョに献呈された。 |
| 1907年1月13日 | シェヴィヤード指揮、コンセール・ラムルーにてヴィーナス賛歌が演奏された。 |
| 1907年3月5日 | ピアノ三重奏曲が、B. Selva、 E. Chaumont、J. Kuhnerの三名によって演奏された。 |
| 1908年2月23日 | ゲルクールの第3幕がロパルツによりナンシーで演奏された。 しかしこれは、ほんのささやかな成功に過ぎず、パリの批評家は特に評価をしなかった。 妻ジュリアは落胆して病気になった。 |
| 1909年 | フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ピアノのための五重奏曲が演奏された。 |
| 1909年1月31日 | リヨンで交響曲第3番が演奏された。 |
| 1909年秋から | マニャールは音楽家のサロンに姿を現すようになる。 そこにはドビュッシーやデュカ、ダンディ、ピエルネ、ラヴェル、ルーセル、フロラン・シュミット、セヴラックなどがいた。 |
| 1910年12月 | ピエルネがコンセール・コロンヌでゲルクールの第1幕を演奏した。 |
| 1911年2月25日 | 国民音楽協会で、前年に作曲されたチェロ・ソナタが演奏された。 |
| 1911年3月15日 | 「プロムナード」が公開初演された。 |
| 1911年11月 | マニャールの参加していたサロンの会合で、弦楽四重奏曲とヴァイオリン・ソナタが演奏された。 |
| 1911年12月15日 | オペラ・コミックでベレニスが上演された(上演回数はわずか8回だった)。 |
| 1912年10月20日 | サロンでピアノ三重奏曲が演奏された。 |
| 1912年から1913年 | 交響曲第4番(op.21)が作曲された。 |
| 1913年12月 | 国民音楽協会でヴィーナス賛歌が演奏された。 |
| 1913年から1914年 | 12の音楽による詩(12 poèmes en musique)が作曲された。 この作品がマニャールの最後の作品となった。 |
| 1914年4月2日 | 交響曲第4番がマニャール自身の指揮で演奏された。 |
| 1914年8月 | ドイツとの戦争(第1次世界大戦)に際し、彼は軍隊に復員しようとしたが、その願望はかなわなかった。 |
| 1914年9月1日 | 妻と娘たちと伯母をオーヴェルニュに避難させ、 マニャールと養子のレネ・クレトンがオワーズ県のバロンの屋敷に残った。 |
| 1914年9月3日 | 「故郷の縮図のように想っている」自宅を守ろうとしたものの、
フォン・クルック率いる騎兵隊に対して孤立したまま、マニャールは武器を手に死んだ。 彼の最後の作品である「12の音楽による詩」は、マニャール自身及び屋敷と共に炎に焼き尽くされた。 |