知られざる作曲家 ~ マニャール



アルベリク・マニャール(Albéric Magnard ,1865-1914)は、第一次大戦のとき、自宅を包囲したドイツ兵と戦い自宅に火を放たれて焼死した、フランク派の作曲家の一人です。
フランクの弟子のダンディに師事したこの作曲家は、いくつかの室内楽曲や交響曲などによって、一部でその名前を知られている程度であり、 その作品は、フランス近代の作品の中においては、「寒色系」と評されることが多く、作風は古典的で、厳しいものが多いです。
私とマニャールの作品との出会いは1999年秋に京都で催されたとある演奏会でのこと。その演奏会で偶然ピアノ三重奏曲を耳にしたことがきっかけでマニャールの作品に興味を持つようになりました。
ここでは、マニャールの生涯と作品について簡単に紹介していきたいと考えています。

マニャールの生涯

アルベリク・マニャール(Albéric Magnard)は、1865年6月9日パリに生まれました。 同じ年に生まれた作曲家にはシベリウスやニールセンがいます(偶然の一致なのか、ニールセンとマニャールは同じ日に生まれています)。 裕福な家庭に育ったマニャールは、法律学校を出て学位を1887年に取得。 一方で1886年にパリ音楽院に入学してデュボアに和声を学び、マスネの作曲コースを聴講します。この辺の事情は10歳年長のショーソンとよく似ています。 その後1888年にパリ音楽院を卒業し、ギ・ロパルツからフランクやその仲間たちを紹介されてヴァンサン・ダンディに4年間師事します。
1896年にはスコラ・カントルムの対位法の教授となり、セヴラックを教えています。 それ以外は特にどこかに属していたと言うこともなく、もっぱら自宅で作曲をし、作品8~20(ということは大半の作品)を自費出版しました。 マニャールの死後、これらの作品はルアール・ルロル社に譲渡されています。
表面的には平穏な生活を送っていたマニャールですが、1914年にその生涯を不意に終えてしまうことになります。 第一次世界大戦が勃発、別荘の書斎でいつものように作曲を続けていたマニャールですが、別荘の敷地にドイツの騎兵隊が侵入。 2階の窓から発砲してドイツ兵を2人殺害。 ドイツ兵も反撃して発砲し、さらには屋敷に火を放ち、当時現存していた歌劇<ヨラーンド>の総譜の写し全てと、新しく作った12曲の歌曲集、 歌劇<ゲルクール>の2幕分の楽譜を焼き尽くし、もちろんマニャールも焼死したのでした。

第一次世界大戦ではラヴェルが生きて帰ってこられないという覚悟のもとにピアノ三重奏曲を書き上げてから戦地に赴いたり、 カプレも戦線でドイツ兵の毒ガス攻撃に曝されたりと、フランスの作曲家は少なからず影響を受けているのですが、 第一次大戦で最も大きな影響を受けた、というのはこのマニャールかもしれません。

引用文献
[1]ニューグローヴ世界音楽大事典(講談社,1993)
[2]CORRESPONDANCE(Claire Vlach, Klincksieck, 1997 ; in French )

マニャールの作品一覧

マニャールの年譜 13 February 2003 published

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